・みんなちがってみんないい

横並び。

良いことなのか、悪しき慣習なのか、良くわからない。


例えば、隣組自治組合で集まって飲んだり食ったりする機会があったとして、ツマミはみんなで持ち寄って楽しく味比べという慣習がある。

ところが、料理を作るのが大変だと言い出す人が現れ、「持って来る人と持ってこない人がいると良くないから、持ち寄りはやめて仕出しに変えるべきだ」との流れになる。

面倒くさいのはお互い様だし、人手がない家に負担を押し付けるのは良くない。

しかし、だからと言って横並びに全部が持ち込みをやめてしまうのはいかがなものか。


似たような例に運動会がある。

都市部の小学校では「徒競走」が運動会の種目から外されていることが多いと聞く。

「ビリになった子供がかわいそうだから」

または速く走れる子も足の遅い子も平等になるように「手を繋いでかけっこ」もあるようだ。

一生懸命にやることが大事なのであって、結果は二の次なのが教育のはずなのに。


本題に戻って一品持ち寄りの一斉禁止。

昂じて、会合に出すお茶も、湯を沸かしたり茶碗を洗うのは手が掛るから、ペットボトルのお茶と紙コップじゃなきゃダメ。

ズク出すと、出せない人が肩身が狭いから・・・。


肩身が狭い人を出さないために、みんなでズク出すのはやめようという「横並び意識」は、どこにでもあることなんですかね。

この辺では、最近目立ちます。

この流れを変えようと、自由にズクが出せるように縛りをなくそうとすると「肩身が狭い人を出してはならない」と強硬な反対意見が少なくない。


できない人はできる範囲でやればいいし、まわりもそれを当然だと受け止めるだけでいいのではないのか。

忙しくてペットボトルでお茶を出す人がいてもいいし、手間暇かけてお茶出しをする人がいてもいい。

肩身が狭いといって卑屈になる必要はないはずなのに。


みんな違ってみんないい。

金子みすずの詩だ。

『わたしと小鳥とすずと』


わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。