・敵をつくる行い

ブログを続けていると、良いことよりも悪いことの方が多いような気がする。
例えば、無能な市議(本当にどうしようもないほどひどい)を取り上げた場合、
そのご子息や親類縁者から、白い目で見られる。(駒ヶ根市役所から情報が出る)


能無しが議員を続けていることが問題なのに、
そんなことは棚に上げて、事実を突きつけるお前が悪いといわんばかり。
市民の利益を考えない議員でも、自分の身内にあることがステータスなのだろうか。


駒ヶ根市の○○検討委員会に出たとする。
お決まりの文句ではじまります。
「忌憚のないご意見を頂戴したい」
ほんとかな、大丈夫かな_と、心配になるので正直に聞いてみる。
「忌憚のない意見を言ってもいいんですか?」


すると、どこからともなく、委員席から闇の声
駒ヶ根の常識というものを知らないのか!」
「委員長に言われたとおりに、ハイと言っていればいいんだよ。」


見かねて知人がアドバイスをくれます。
「本当にそんなこと言ったら、友達無くすよ・・・」


市民と協働を謳っていますが、実態は多かれ少なかれこんな感じです。
都合の良い市民は大事にされますが、都合の悪い市民は「悪人」として扱われる。
そして、それが市民の常識として浸透している。
よい市民を演じるためには、無難な対応をするのが大人と割り切って生きていく。


馬鹿正直に、不正を追求しようものなら
「そんなことをしたら秩序が乱れるから止めろ」と、
真顔で説得される。

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先日、あるブログにお邪魔して、打ち水の問題点を考えてみませんか?とコメントしてみた。
すると、そのブログの主は、後日、 【困った人達】 のタイトルで、
「他人がやっていることに批判的な人がいます。」
と切り返して来ました。


長野県庁のお役人さんが管理しているブログのようですが、愕然としてしまった。
間違った解釈が蔓延しているので、見直しほうがよいのではないかと提案したつもりだった。
ところが、行政やNPOが良かれと思ってやっていることに口を挟むうるさい奴、の扱いです。
正しい行いを、闇雲に非難したのならばそういわれても仕方がない。
しかし、行政も含めて勘違いが横行して、間違った概念が定着することは社会のためにならない。


「理屈は二の次でも、できる人が協力してとにかく行動しちゃう。これがポイント」との考えをお持ちらしい。
人を動かすのは理屈ではないとの「理屈」にも一理ある。
しかし、とにかく行動して間違った行いをしても許される_との甘えが根底にある。


行動する前に考えれば分かる、知っている人に聞けば教えてくれる。
しかし、行動を起こすことに意義があるから、そんな手間はかけてられない。
理屈は後から付け加えればよい。
理屈を知っている奴は、四の五の言わずに協力しろ。


とにかく行動派の「屁理屈」には辟易させられる。

正しいと思って行動を起こしましたが、結果としては間違っていました。
しかし、我々の行いは正義に基づいたもので、批判されるべきものではない。


ほとんどの戦争は、このような考え方を持った人たちによって始められます。

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駒ヶ根市への理解を深める。

 駒ヶ根市にも、まともなというか、頭の切れる職員もいる。
 意見を真摯に聞き入れてくれる理知的な人がいる。
 「打ち水」の矛盾を即座に理解できる頭の軟らかさも持ち合わせている。
 ただし、圧倒的に少数である。