・絶望の表現としての殺人を防ぐ

平野啓一郎公式ブログより「究極のことがあれば殺してもいいということを容認している社会である限り、絶望の表現としての殺人が起こり続ける」

今朝の信濃毎日新聞文化面に掲載された作家・平野啓一郎さんの言葉です。


「自己責任や自助努力が強調されている中で『殺人者は殺されて当然』、『死刑によって排除する』という考え方が支持されている。」

「殺人はだめだといっている社会自体が『悪いことをしたら殺す』では整合性が無い」

どれも心にずしりと重く響きます。


死刑が有効だった理由のひとつに、昔からの日本に伝わる『地獄』という死生観がありました。

これに対して平野氏は、「殺人者は地獄で永遠に罰せられるという世界観を共有できない現代社会」と指摘しています。

死刑は、奪われた被害者への償いとして加害者の命を差し出す刑罰としての意味合いのほかに、現世で生きることの権利を奪い地獄の業火に焼かれながら罪を償い続けるという死生観の裏づけがあったのだと思います。


しかし、現世に絶望し、現世からの離脱を目的とし、地獄の存在を認識しない殺人者に対しては死刑の有効性に疑問が生じます。

死後の世界としての『地獄』を認識というか想像できない者に対して、地獄に取って代わる永遠に罰せられる方法とは何か。

秋葉原殺人事件のような犯罪を抑制するには欠かせない論点だと思います。


死刑のほかに有効な刑罰を上記の視点から考えると、『生き地獄』の存在を意識させることが効果的ではないか。

犯罪行為によって奪った余命に見合う刑期を処罰としての刑罰に加えてもいいのではないか。

秋葉原では7人が殺害されているから、一人当たり50年の余命と仮定して350年の刑期が加えられる。


この刑期には原則として情状酌量の余地を認めない。

精神障害心神状態による減刑や減免も、いきなり無罪ではなく奪われた人命に見合った償いを義務付ける。

刑事罰として無理なら、民事で人命の等価価値として認めてもいいのではないか。


『絶望の表現としての殺人』を防ぐには、がり勉君の延長にある法律家の固い頭には任せておけない。

裁判員制度の導入を間近に控えた今、国民一人一人が真剣に考えるときが来ていると思います。