・やってなくても痴漢で冤罪

映画「それでも僕はやってない」は、見ていて身につまされました。

周防正行監督が手掛けた、『痴漢冤罪』を社会に問う内容です。

映画レポート「それでもボクはやってない」ニッポンの裁判、その問題点を真正面から問う!

 痴漢冤罪を題材にしたこの映画は、まるでキャッチコピーのようなタイトルから察せられるように、“主人公が実際に痴漢をしたかどうか”をめぐるドラマではない。明白に無実である市民がひとたび現行犯逮捕されると、その先にいかなる運命が待っているかを、さまざまな実例を綿密にリサーチしたうえで描いている。刑事による密室での荒っぽい取り調べでも、謎の裁判長交代で形勢が様変わりする法廷でも「ボクはやってない」と一貫して主張するフリーターの主人公。無実なんだからきっといつか救われるという彼の幻想は、日本の奇妙な刑事裁判によって無惨に打ち砕かれていく。周防正行監督が11年ぶりにメガホンを握った原動力は、おそらく“怒り”だったに違いない。こんなことがあって許されるはずがない、というストレートな使命感。本作の法廷シーンには、ハリウッド映画さながらの刑事と検事の“スリリング”な攻防は一切ない。撮影監督、栢野直樹のシンプルかつ緻密なカメラワークが、実際に体験だけはしたくない居心地の悪い“サスペンス”を生み出している。(高橋諭治) (PREMIERE)
満員電車で通勤していた過去の経験から、誰もが遭遇する可能性のある身近な危険でした。

「痴漢を防止するためには多少の犠牲は仕方がない」というのが、痴漢摘発の根源にあるのですが、冤罪で誤認逮捕されている人がいるということは、真犯人が野放しにされていることの裏返しでもあります。


満員電車でもみくちゃにされて、気がついたら手が「あってはならないところ」にあったときの恐怖。

動けば痴漢になるのは必然ですから、引き抜くこともできません。

田舎の電車しか乗ったことのない人には想像もできないでしょうが、自分の手が自分の自由にならないのが満員電車です。


痴漢を摘発することの重要性は論議するまでもありませんが、冤罪が多発する現状の摘発方法は早急に改善する余地があると思います。

この現状を逆手にとって「冤罪ビジネス」に走る悪者がいるからです。


「お尻触ったでしょ」

 2月1日午後8時半ごろ、大阪市営地下鉄御堂筋線の車内。ドア付近でポケットに手を入れて立っていた国分さんの肩に、隣に立っていた女性(31)がぶつかったと思うと、そう言い放った。

 否定すると女性はしゃがみ込んで泣き、離れたところで立っていた男が「触りましたよね」と近づいてきた。男は虚偽告訴容疑で逮捕された甲南大学法学部4回生、蒔田(まきた)文幸容疑者(24)。「はめられた」と思った。


あろうことか、法学部の学生が痴漢冤罪ビジネスを思いつき、声をかけて付き合うようになった女友達に被害者を演じさせる。

それからは「それでも僕はやってない」と全く同様に、

無実を訴えようと天王寺駅の事務室に自ら赴いたが、駆けつけた阿倍野署員は「白状したら許したる」。パトカーに乗せられ、手錠をかけられた。署でも否認したが、留置された。名前では呼ばれず、「留置者番号14番」として扱われた。「話を全く聞いてくれない。どうなるのか」と一睡も出来なかった。
法学部の学生が冤罪を仕掛け、司法の手先である警察が冤罪を作り上げる。

司法は痴漢冤罪に関しては裁判の原則を封じて”疑わしきは罰する”。

痴漢犯罪を防げない満員電車の問題と、裁判制度の欠陥の重大さに気が重くなります。