・裁判の責任能力否定は人権無視

横浜地方裁判所裁判官による刑事責任の判断で、犯罪者(被告)が無罪になることがあります。

今月22日にも、横浜地裁が、傷害罪などに問われた男性被告(40)の判決で、刑事責任能力を認めた2件の精神鑑定を退け、覚せい剤使用以外の起訴事実を無罪としました。

公判前と公判中に実施された精神鑑定で、医師は責任能力を一部または完全に肯定しているにもかかわらず。

横浜地裁の永井秀明裁判官は判決で「妄想や意識障害の程度は著しい」と判断し、判決は3つの罪を無罪とする一方、覚せい剤取締法違反罪について有罪を言い渡しています。


一方、東京都渋谷区の会社員、三橋祐輔さん(当時30)殺害事件で、殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われた妻、歌織被告(33)の判決公判で、東京地裁(河本雅也裁判長)は、「犯行時に責任能力はあった」と判断し懲役15年(求刑同20年)を言い渡しています。

公判で鑑定医2人が「犯行時は心神喪失状態」と報告、責任能力が争点になったが、裁判所は証拠を総合判断し、有罪と結論付けた。

判決理由で河本裁判長は、2人の鑑定医の鑑定結果を「被告は矛盾なく幻覚体験を語っており、犯行時に幻覚症状があったとする報告は信用できる」と認めた。

しかし、公判で示された他の証拠から、歌織被告が離婚を望み、夫との生活に絶望的になるなど犯行動機が明確なこと、犯行状況も殺害目的で頭だけを狙っていること、犯行後に遺体を切断して証拠隠滅を図ったことを指摘。

「殺害行為は被告の意思に基づいていた。犯行時の精神障害は現実感の喪失など犯行の実現に影響を与えたが、責任能力を否定する程度ではなかった」と述べている。


この二つの異なる裁判所の判決は、『罪と罰』の違いにあるように思えます。

前者は、法律の適用に主眼を置き、罪が問える責任能力の有無を法解釈した法律家としての判断です。

後者は、犯した行為の重大さを社会通念と照らし合わせ、それ相応の罰を与えた裁判官としての判断。


責任能力が裁判の駆け引きに使われることを疑問に思う人は少なくないと思います。

責任能力の有無にかかわらず犯罪行為があり、犯罪被害者は存在する。

被告が無罪とされた場合に、悪行の報いを受ける対象がいなくなってしまう矛盾。


法律学的に犯罪者の責任能力を判断することは大事だと思いますが、それとは別に犯した行為の報いは受ける仕組みが必要だと思います。

責任能力のない犯罪者にも再犯の危険があることを考慮すると、罰を与えつつ地道に「犯罪を犯してはいけないよ」と頭に焼きつかせる必要がある。


犯罪被害者の立場からすれば、責任能力がある場合の刑事罰に相当する、責任能力が問えない被告に対する『懲罰』が併設されていて当然だと思います。

罪の意識はなくても犯した罪に応じた罰は与えられるのが当然だと思うのですが。

因果応報は良くも悪くも平等に、善因善果・悪因悪果・自因自果としてかえってくるべきもののはずでは。


責任能力がないから無罪といわれたら、それは一面では責任ある人間として認められなかったことになる。

犯した行為で責任を負わされることも、大事な人権だと思いますよ。