・国民が招いた無差別殺傷事件

犯行現場の啓文堂書店内 =東京新聞=自分の人生の最後に一花咲かせる。

誰でも考えそうなことですが、青少年が犯罪の理由としているところが恐ろしい。


昨日、八王子の駅ビル書店で、アルバイト店員の女子大生が刺し殺される事件が起きました。

犯行の動機が、「親が話を聞いてくれず、大きな事件でも起こせば自分の名前がマスコミに出るだろうと思ってやった」。

家庭内のもめごとを外部に持ち出し、まったく無関係の罪のない弱者(犯人の暴力から見て)を標的に凶悪事件を起こし、名を上げて憂さを晴らす。

自分の人生に責任を持たない若者が少なくないことを示しています。


最近でも、秋葉原殺傷事件を頂点に、先日のバスジャック事件などの連鎖反応と考えられる事件が頻発しています。

専門家の分析では、今回の事件は秋葉原無差別殺傷事件の「余震」とみられる。

東北の地震にかけた悪い冗談だと思いたいところですが、あながち外れていないかもしれません。


今回の事件でも、『親』が反抗の引き金になっている点から目が離せません。

人格形成ができなかった家庭では、どのように子供を育てていたのか。
=「33歳の息子」に親がどれだけ責任を感じなければならなのか。

家庭の力不足を社会が補えなかったのか。
=義務教育の期間よりも長く社会に出ているはずの、いわば大人の教育が正しく行われているのか。

疑問は膨らむばかりです。


答えを見つけることは難しいと思いますが、わが子が暴力団と同様の考え方「犯罪で箔がつく」と思い違いをしないようにするために、人となりを教え込む必要が高まっています。

薄っぺらな箔がついても、中身は粗雑な人間のままであることが、いかに惨めなことなのか。

犯罪に走る前に子供に伝えることが求められています。


ひとつ言えるのは、アメリカナイズされた自由経済の弊害で歪められた『自我を高める教育』の悪い面が出ていると思われます。

自己研鑽に向かうはずが、自己賞賛に迷い込んでしまい、他者あっての自己であるという位置づけを見失ってしまっている。

勝ち組と負け組みがハッキリと分かれてしまった今の社会状況では、自己として生き抜くためには手段を問わないことが正当化されつつある。


家庭と社会の人間形成力が疲弊した責任は、政治にある。

歪んだ社会構造が生み出す軽率な重大犯罪を抑止するためには、政治から変えなければならないと思います。

腐敗した政治を継ぎ接ぎして生き長らえさせて来た責任は、国民に帰する。


ここでもまた、因果応報。

国民による選択の間違いが、結果として国民生活を苦しめていることに気が付かなくては、解決の道は閉ざされたままだと感じます。