・墓参りと無差別殺人

All About お墓参りよりお盆が過ぎ、帰省先で先祖に感謝した方々が実生活に戻ってきました。

一年で一番、「命」について考える機会だと思うのですが、お墓参りが命を紡ぎ続ける意識づけに役立っているのかな。


そんなことを思ったのは、昨日のNHK日曜討論を拝見してのこと。

秋葉原殺人事件をテーマに多彩な顔ぶれが問題の本質に迫って、途中から見始めたのですが見入ってしまいました。


「個を尊重する教育が30年前ほどから始まり、20年前から子供たちが変わった」

教育現場の変貌で、個人の権利が偏重され、人類が生きながらえるために個人が何をなすべきかがないがしろにされてきた。

人が生きる目的が、自己実現に置き換えられてしまい、本来の命の役割を見失ってしまったのだと思います。


今、自分が生きているのは、親から祖先にいたる過去の命の連携があってこそ。

今、自分がなすべきは、子孫がより良い環境で命をつないでいけるように努力すること。

自己実現は、他者である子孫の役に立つものでなければまったくの無意味。


本能で生きる昆虫には学ぶところが多い。

特に心酔するのがカマキリの雄です。

雌との交尾で次の命を作り出し、次の命の糧として交尾後には雌の餌となって自分の命を活かす。

究極の自己実現をここに見る。


浄土真宗のあるHPにお墓参りの本質を突いた記述を見つけました。


故人の好きだったお酒や食べ物などを供え、故人の霊に手を合わせて慰めることがお墓参りだと思っているとしたら、それは少し筋が違います。はっきり言って、お墓に先祖の霊が宿っているのではありません。固定的実体的な霊をそこに見ようとするのは、他ならぬ私自身の執着心がなせるわざで、実際的には、故人はお墓の中に眠っているわけではなく、また遺骨が故人なのではなく、すでにお浄土へ還られています。
それでは、お墓は何のためにあるのでしょうか。お墓は、先祖あるいは故人が必要とするからあるのではなく、私たちが先祖、故人を敬い讃えたいと思うから建てるのです。さらに言えば、かけがえのない命を私に伝えてくださったご先祖に感謝しつつ「その命を精一杯輝かせて生きてくれ」という私へのご先祖の願いを聞く場でもあります。また、遺骨を前にして諸行無常を味わうのもお墓でしょう。
次の世代の命が精一杯輝くように、今の私たちが一生懸命に生きる。

他者を幸せにすることが、自己を最も高めることにつながる。

他者を不幸せにすることは、自己を貶め(おとしめ)、他者の命を奪い去るのは、もっとも醜い行いであると自覚する。

こんな当たり前のことが忘れ去られて、自分のために生きているのだと錯覚する者が増えたことが、無差別殺人の背景にあるのではないかと思います。