・無駄な公共事業はない?

先日、朝飯を食いながらワイドーショーを見ていたら、気になるテーマが取り上げられました。
「無駄な公共事業はない」
村井知事や中原駒ヶ根市長が聞いたら涙を流して喜びそうなテーマです。


逆説的な公共事業批判だと思ったら、さにあらず。
公共事業の無駄とは何かを冷静になって考えてみましょうというものでした。


例えば、北海道東部の高速道路。
自動車よりも鹿や熊の横断の方が多いと揶揄されている、無駄な公共事業の典型と考えられています。
利用者が少なく、採算が合わないのだから、無駄といわれて当然のはずです。


しかし、受益者の観点から見れば、無駄どころか必要不可欠になってしまいます。
道東の海産物を鮮度を保持して運ぶためには、高速道路は絶対に必要との論法も理解ができます。
必要な受益者がいるのだから無駄な事業ではないと言えるかもしれません。


無駄な公共事業がなくならないのは、この論法に一定の理解が示されるからです。
批判している側は、無駄の多い事業だといっているのに、
反論する側は完全に無駄とは言い切れない_と議論をすり替えてしまいます。


そこで、視点を変えて考えてみたらどうかと思いました。
迷惑度で公共事業を判定したらどうでしょうか。


駒ヶ根市に当てはめてみれば、東伊那にあるシルクミュージアムが典型です。
絹の文化資料を集めることには、学術的な価値がありますから無駄な施設だと批判してもかわされます。
しかし、多額の赤字で市の財政に負担をかけている点では、市民に迷惑をかけています。


良好な田んぼを潰して作り、施設を周回する道路を過剰に舗装したのでかなりの自然破壊です。
僅かな客のために、施設の管理に多大なエネルギーを浪費している。
オマケに、蚕(かいこ)が食べる桑の葉が欲しくなって、沿道の桑の木を切り取る不心得な客も少なくない。
施設を出てしまえば、責任はないと逃げ口上ですが、地域住民の立場で考えれば、
迷惑施設を作られた恨み節が聞こえてきます。


こういった施設を作るときには、予想される赤字は過少申告されます。
浪費は、施設管理のためにやむをえない。
迷惑行為は予想できなかったと責任回避。
住民には、十分な情報提供をせずに、作るための環境整備だけが横行します。


無駄な公共事業と言われるものは、多かれ少なかれ、このような体質的な欠陥を持って生まれてきています。
身の回りの公共施設を迷惑度で判定してみませんか?
無駄を証明するために必要な難しい数字や計算をしなくても、迷惑なら実感として理解できます。


これから行われる公共事業が、どのような迷惑を与える存在になるか想像してみましょう。
無駄じゃなくても、迷惑なものは拒否する権利が市民にはあります。